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明大ラグビー部物語

栄光の歴史 -明治大学ラグビー部70余年の歩み- 
ラグビー部OB倶楽部 会長 渡部昭彦 
 

明治大学ラグビー部は、学友会ラ式蹴球部として大正12年4月1日、初代主将能美一夫によって創設された。創設時は、部員獲得に困難を極め、柔道、相撲、陸上選手を中心として増強に努めるとともに、練習グランドの確保に奔走したが、日比谷公園や代々木原を渡り歩いて練習を続けるのが精一杯であった。幸いにして、コーチングについては、大学ラグビーの先駆者である慶大、早大の選手に教えを請い、この上ない指導を受けることができた。 
 
大正14年、北島忠治が部員として加わり、更に、昭和4年卒業と同時に監督に就任し、創設者能美からバトンを引き継いで今日のラグビー部の輝かしい実績を積み上げてきたのである。 
 
初代能美主将は、部員に対し練習の心構えを、「規律ある統制とチームワーク」、「豪快なプレーを通じて身体精神力の向上」、「フェアと正々堂々の態度」として猛練習を重ねた。後に北島監督は当時を振り返り、「草分け時代に柔道、相撲、陸上の三者が寄り集まったのは力とスピードという明治のモットーに偶然一致していたようだ」、また、自分が部に加わった時、井上主将が、「審判が見ていなくてもルールを守れ」といった言葉は、スポーツの真実のあり方に初めて触れた気がした。「この時代の人達はラグビーの精神をよくわきまえて猛練習と努力を積んでいたが、今日に残る伝統の基礎もこの時代に築かれた」と語っている。
 
 
 【記念すべき初試合は0対60の大敗であった】 
 
大正12年12月18日、記念すべきラグビー部の初試合が当時不敗の創始校慶応大学との間で行われた。結果は0対60の大敗であったが、翌日の新聞で、「展開性のない明大は押すことのみにとらわれ、俊足と敏捷さを誇る慶大に無人の境を行くが如く活躍をなさしめた。しかし、頑強な体力と不屈な元気に充ちた明大は、この長所を利用して科学的な研究をすれば将来恐るべきものである」と言わしめた。

続いて12月24日、創部第2戦を早大と行い、3対42で大敗したが、相手のミスをついて初トライをあげた。

早大戦の2日後、東京帝大にも0対44で大敗した。
 
初年度、当時のビッグ3とベストメンバーで挑みすべて大敗に終った。この後、5年後に早大を、6年後に慶大に初めて勝利することとなる。 
 
創部3年を迎えた大正14年、赤神教授が部長に就任され、また、現在の「ブリューアンドホワイト」のユニフォームの着用が始まった。この年、明治ラグビーにとってかけがえのない存在となった北島忠治が入部した。翌15年には、村瀬教授作詞によるラグビー部歌が誕生し、部としての形が整ってきた。

昭和4年、前年に主将として初めて早大を破った北島は、大学卒業と同時に監督に就任し、「ラグビーは力とスピードの競技」であるとし、揺るぎない精神力と体力の増強に努め、テクニックを弄するラグビーを戒めるとともに、この年、宿願の慶大打倒を果たした。  
 
創部以来の目標であった打倒早慶が成り、次の目標として全国制覇を期していたが、昭和6年、北島監督就任3年目、創部9年目の年に遂にその悲願を達成した。「縦の揺さぶり」を原動力とした明大は、強力なFWを軸にバックスの突進力を持った展開により13年、14年、15年の全試合に勝利、ラグビー界最初の3連覇を飾り、第1期黄金時代と言わしめ、以後太平洋戦争勃発まで早明両校の争覇時代が続いた。昭和16、17年は早大に敗れたが、17年(後期)は明治が雪辱し、戦前最後の早明戦を終える。慶応が最後の年度で13年ぶりに優勝した。  
 
戦禍を免れた八幡山グランドと合宿所は復員してきた学生にとって我が家となり、北島監督も合宿住まいを共にすることとなった。当時何より切実な問題は、食料不足であり、農耕作業は部員の最も重要な作業として続けられた。飢餓状態のなか、苦難の練習に耐えて明治ラグビーの再建を期する八幡山に懐かしいホイッスルが響いたのは昭和21年2月であった。この年は、明治、東大がともに同率首位となった。  
 
昭和22年、依然食料不足が続く中、5シーズンぶりに早慶を破り関東制覇をしたものの関西学院に敗れ、早大が戦後初の全国制覇を遂げた。その後、昭和24年、明治が7年ぶりに全国制覇を果たしたが、このころには、早明の覇権争いは戦前並みに復活し、前後8年間は、4勝4敗の成績で推移した。  
 

【昭和30年代は沈滞の時代であった】  
 
昭和30年に入ると、早明ともに不振の時代を迎え、共に慶大、日大に敗れ2敗同士の早明戦は11対3で勝利するも2位が精一杯であった。

日大、中央、法政、立教をはじめとする新勢力の台頭が著しく、更に加盟校の増加にともない、昭和32年には、ABブロック制が採用され、また、昭和39年、全国大学選手権試合が始まるなどラグビー界は大きく変わってきたが、明治は36年、37年の関東大学対抗戦での優勝以降の数年間は、かつて例のない沈滞の時代であった。監督生活35年の北島監督をはじめ、建て直しに尽力した現役、OB達は他に倍する練習と努力を重ねたが、試合メンバーにもこと欠く状態であった。  
 
丁度このころ、大学ラグビー界は日本選手権の実施にともない、大学選手権を行うことになるが、まず明治は出場がかなわないという試練を経験することになる。 
 
当時、入試難と学力不足による退部者が出て、常に部員不足に悩まされた。重戦車と異名をとる大型FWも当時は小型化、シーズン中は1・2年生中心メンバーで臨むなど苦労を重ねた。一時は部員数が30数名に減少したこともあり、41年と42年は主将が2年連続でつとめるという異例の事態まで起きた。42年は卒業生が3名であった。  
 
だが、苦難の中にも北島監督は、ひたすらFWを強化することに目標を置き、技術的な進歩よりも、精神面での立ち直りを部員達に求めた。  
 
40年代半ばからは、ようやく部員数も増えはじめ、練習マッチが部内でできるようになる。また、従来の明治らしい大型選手も増え、同時に有望新人が顔を連ねる状態が戻った。ようやく待望の復活である。45年、明治は惜しくも2回戦で敗退するが、初の大学選手権出場を果たす。  
 
その後、戦力は更に充実、創部50周年にあたる昭和47年、宿敵早稲田を破り大学選手権初優勝を勝ち取った。明治はこの優勝以降、5年連続大学選手権決勝進出、うち優勝3回。昭和50年には、悲願の日本選手権優勝をも果たし、全盛期を迎えることとなる。  
 
昭和52年からは、早稲田を4年連続で撃破することになる。この年は大学選手権にも見事優勝し日本選手権に駒を進めたが、選手権直前の1月11日、戦後の最も辛い時代に合宿所における学生達の生活を支え、「監督夫人」というより、むしろ「学生の母」ともいうべき存在であった北島監督夫人みゆきさんが他界。選手一同喪章をつけ、意を決して日本選手権に臨んだ。その気迫が勝ってか、戦前の予想トヨタ絶対有利を大きく裏切り、総得点ではトヨタに一歩譲ったもののトライとトライ後のゴールでは、明治が勝っていた。シーズン終了後のみゆき夫人の葬儀の席で北島監督は「わたしがラグビー一筋に打ち込めたのは亡きみゆきのお陰です」と涙をまじえて挨拶され多くの参列者の胸を打った。  
 
明治は、その後も対抗戦優勝をはじめ、常に大学ラグビーの頂点に君臨しつつ、大学選手権では、初優勝から数えて昭和58年に準決勝で日体大に惜敗するまでに11年連続決勝進出をはたす。この年は早慶が揃って大学選手権に出場できず、その翌年は、明治が連続15回目にして出場が絶たれ、伝統校受難の時代かとも思われたが、昭和60年の慶応と両校優勝から連続13回の出場と平成2年からは8年連続決勝進出などグランドにおいての明治の全盛時代は続いた。 

平成8年、ラグビー部にとってかけがえのない存在である北島監督が逝去。現役部員、OBを始め、ラグビー関係者、ファンまでが悲しみに暮れた。昭和4年の監督就任以来、人生の70年をラグビーにつぎ込んでこられた北島監督を思い、葬儀の式場では北島ラグビーの継承と明治ラグビーの発展を一同胸に誓い、現役の選手達は全ての試合に喪章をつけて臨んだ。その年の大学選手権では、現役選手とOB全員の執念により、亡き北島監督に大学選手権を贈った。 
 
近年、大学選手権は法政大、日体大、新興勢力である大東大、関東学院大が優勝し、明治が惜敗する場面も稀にあったが、昭和45年の大学選手権初出場から平成9年までの28年間で、明治は12回の優勝と9回の準優勝を数えるという輝かしい戦績を残している。 
 

 【平素の鍛錬は体力と同時に精神力をも並行させねばならぬ】  
 
昭和15年、3年連続全国制覇の偉業を成し遂げたとき、北島監督は新聞にコーチ体験記という手記をよせており、その中に「十訓」を示している。以下、その引用である。

「私の指導方針としては、技術は第二義的なもので平素の鍛錬は体力と同時に精神力をも並行させねばならぬと考えている。しかも、これからは、選手自らが進んで行わなければならない。この点、明治のフォワードはよく強いと言われるが、これは、選手各人が押さなければならない、ということを痛感してきた結果と信ずる。自発性を強調するために十訓をつくってあるが以下の通りである」。  
 
1.監督、委員の命令を守れ
2.技術に走らず、精神力に生きよ
3.団結して敵に当たれ
4.躊躇せず突進せよ
5.ゴールラインへ真っ直ぐに走れ
6.勇猛果敢たれ
7.最後まで緩めるな
8.低いプレーをせよ
9.全速力でプレーせよ
10.身を殺してボールを生かせ 
 
北島監督就任後11年であった。以来、この北島精神は「前へ」という言葉に集約され、学生の練習に、試合に、そして日常の生活のなかに受け継がれてきた。 
 
ここ最近、ラグビーオープン化に伴い、社会人チームの外国人選手起用によるレベルアップが図られ、学生と社会人の実力差が開き、残念ながら日本選手権で学生が惨敗するケースも出てきた。また、技術・体力におけるラグビーの質の高度化が顕著になってきている。しかし、永年にわたり培われた北島精神を今も選手達はしっかりと継承し、いかに実力差があろうとも正々堂々と勇猛果敢に対戦相手に向かってゆく明大ラガーマンの「前へ」の姿は、いつまでもラグビーファンを魅了してやまない。 
 

※本記事は「明治」創刊号(1998年10月18日、明治大学広報部発行)に掲載されたものです。本記事の転載については、2004年1月8日付けで、明治大学広報部の許可を得ています。 
 

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創部初試合(慶大戦)メンバー

①島崎 軍二 
②吉田 
③中西 光雄 
④木幡 
⑤大里 弼二郎 
⑥川又 務
⑦矢飼 健介
⑧城後 和三郎
⑨大槻 文雄
⑩鎌田 久眞男
⑪柳 茂行
⑫能美 一夫(主将)
⑬縄田 喜三郎
⑭池松 鶴之助
⑮小林

部歌

ルビコンの流れ
勇姿を宿し
天山の嵐
将星をみがく
知るや駿台
ラグビーの戦士
球蹴れば
空鳴り
球落つれば
地揺らぐ
勝利は我にあり
勝利は我にあり
バシティー明治
バシティー明治
バシティー明治