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紫紺の軌跡

◆1899(明治32)年

慶應義塾大学ラグビー部創部

 

◆1911(明治44)年

同志社大学ラグビー部創部

 

◆1918(大正7)年

早稲田大学ラグビー部創部

 

◆1921(大正10)年

帝国大学(現東京大学)ラグビー部創部

 

◆1922(大正11)年

明治大学ラグビー部創部

 

◆1923(大正12)年度

4月1日、前年から活動を始めていた明治大学ラグビー部正式承認。

12月18日、創部初試合は国内無敗を誇る慶應義塾大学。明大能美主将の要望を受け入れベストメンバーで臨んだ慶大に14トライ7コンバートにDGも加えられ、この時点で国内試合最多得点となる60点を奪われ零封負け。

12月24日、チーム2試合目は早稲田大学との一戦。早大は早慶戦不出場組5人を入れた一軍半で対戦したが、12トライ(C3)の42点を奪う。明大も後半5分に創部初トライ、3点を上げて意地を見せた。

 

◆1925(大正14)年度

相撲部にいた北島忠治が神宮競技大会の高専ラグビー予選に予科チームの応援で出場、その後ラグビー部入りする。

 

◆1926(大正15)年度

部歌誕生。作詞:村瀬武彦教授、作曲:宮内庁雅楽部。

成増の遊園地兎月園に専用グラウンドを得て、三田綱町の慶大戦以外はホームに相手を迎えて戦うことになったが、東京商大に3-0と辛勝したものの慶早東には敗れた。

 

◆1927(昭和2)年度

創部以来初のシーズン勝ち越し。

12月、ホッケー部とともに上海遠征、2戦2敗。

 

◆1928(昭和3)年度

慶早東明立による関東五大学リーグ戦がスタート。初めて神宮競技場で行われた早明戦に臨んだ明大は前半11-0と対早大戦初めてリードして折り返す。後半は無得点だったものの早大をトライ一つに押さえ初勝利、堂々関東2位。

 

◆1929(昭和4)年度

北島忠治が監督に就任。

雨中戦を制し慶大に6-3の逆転で初勝利。

 

◆1930(昭和5)年度

和泉に専用グラウンド完成。

 

◆1931(昭和6)年度

史上初の明早全勝対決。早大を33-8で下す。関東五大初優勝。正月の東西大学対抗で京大も破り初の全国制覇。

 

◆1933(昭和8)年度

和泉に合宿所完成。

東京商大、法大加え関東七大学リーグとなる。

1月、オーストラリア学生選抜来日、明大勝利。

 

◆1934(昭和9)年度

全勝同士で対戦した早大を下し3年ぶり2度目の関東七大学優勝を飾るが、関西1位の京大に敗れ全国制覇逸する。

12月、第2回上海遠征、3戦全勝。

 

◆1935(昭和10)年度

夏合宿以来取り組んできたSE=セブンエースを置くダブリン・システム(FW3・2・2)で早大を破り2年連続優勝。正月には京大を下し2度目の全国制覇。

 

◆1936(昭和11)年度

明早戦は明大の主張が通り日本初の40分ハーフで行われる。

12月、第3回上海遠征、3戦全勝。

 

◆1938(昭和13)年度

グラウンド、合宿所を八幡山に移転。

夏の富士吉田合宿で仙崎弘治主将が練習中不慮の事故死、胸に喪章をつけて試合に臨んだ明大がダブリン・システムを捨てエイト・フォワードで早大を破り、3年ぶり関東制覇。正月に京大を下し全国制覇。

 

◆1939(昭和14)年度

12月3日の朝日新聞の明早戦記事は明治FWを「戦車型FW」と表現、エイトFWに変えた早大を下し2連覇、全勝のまま全国も制覇(連覇)。

 

◆1940(昭和15)年度

早明戦史上最多得点となる52点を上げ史上初の3連覇、すでに同大を破り全国3連覇の偉業も達成。

北島監督は自発的なことを強調するため部員とともに“十訓”をつくる。

 

◆1941(昭和16)年度

1938年12月に早大に敗れたあと4年越しに続いていた連勝が43でストップ。

12月繰り上げ卒業で多くのラガーマンが戦場へ。

 

◆1942(昭和17)年度

戦争による繰り上げ卒業のため春秋二季制。

10月14日、出陣学徒壮行紅白試合が神宮競技場で行われる。

 

◆1943(昭和18)年

ラグビー試合全面禁止。

戦争激化で部活動中断。部員が次々戦線へ。

 

◆1946(昭和21)年度

終戦後、戦災をまぬがれた八幡山合宿所にぞくぞくと部員達が結集。

戦後初の明早戦。2敗の早大に対し明大は全勝。しかし、予想を覆し早大が明大を下す。1敗の東大と明大が同率優勝。

2月、火災により合宿所半焼(昭和23年に再建)。

 

◆1947(昭和22)年度

11月22日、東京青山の元女子学習院跡に、ラグビー関係者の努力で専用の東京ラグビー場(昭和28年、秩父宮殿下ご逝去に伴い秩父宮ラグビー場と改称)が完成。明大対東大で杮落とし。

八幡山に他校を招き多くの試合をこなす。このころ明大では農作業を重要な仕事としており、訪れたラガーマン達に収穫物を贈る。

 

◆1949(昭和24)年度

21対20で早大を破り関東大学を制覇。正月の東西対抗では16対0で関学大を破り11戦全勝で戦後初の全国制覇を成し遂げる。

 

◆1951(昭和26)年度

戦後3度目の関東制覇。

 

◆1952(昭和27)年度

全国制覇7回、関東制覇9回をもって創部30周年を迎える。

 

◆1955(昭和30)年度

2月~3月、オーストラリア学生選抜来日、全日本が3戦全敗したが、OB8人を入れた全明大が後半33分相手ミスから逆転トライを奪い勝利。

 

◆1956(昭和31)年度

1月2日、花園で行われた東西対抗の関西学院大戦が観客の野次やゴミの投げ込みにより荒れ模様となり、北島監督は、ラグビーをやる雰囲気ではないと判断し、選手を一時引き上げる。

 

◆1958(昭和33)年度

OBの手により北島監督邸新築。

 

◆1964(昭和39)年度

合宿所を鉄筋に建て替え。

 

◆1972(昭和47)年度

創部50周年。大学選手権決勝にて昭和36年以来、実に12年振りの明早戦勝利をおさめ学生日本一に。

 

◆1973(昭和48)年度

初のニュージーランド遠征、3勝5敗。

 

◆1975(昭和50)年度

明早戦、51回の歴史の中で初めての引き分けで明早そろって対抗戦優勝。

4年連続明早対決となった大学選手権決勝で、対大学チーム46戦無敗の早大を破り3年ぶり2回目の優勝。

日本選手権で三菱自工京都を破り日本一に。この時の点差25点は学生が社会人相手に勝ち取った最大点差。

 

◆1976(昭和51)年度

第2回ニュージーランド遠征、7戦全敗。

 

◆1977(昭和52)年度

対抗戦における明早戦の連敗を14で止める。その結果、関東大学対抗戦での単独優勝は昭和37年以来15年振り。学生日本一。日本選手権はトヨタ自工に敗れる。

 

◆1979(昭和54)年度

大学選手権決勝は同大戦。史上初のノートライとなるが6-3で勝利。

日本選手権は新日鉄釜石と対決するも6-32で完敗。

 

◆1980(昭和55)年度

大学選手権決勝は前年と同じく同大戦。明大はノートライに抑えられ、同大に雪辱される。

 

◆1981(昭和56)年度

大学選手権準決勝は前年、前々年の壁であった同大戦となるが、同大戦実に220分ぶりのスクラムトライによりペースをつかみ、決勝早大戦に進出。前半リードされるが逆転勝ちで5回目の学生日本一に。日本選手権は新日鉄釜石の4連覇の前に屈する。

 

◆1982(昭和57)年度

創部60周年。対抗戦で早大、慶大両校に敗れる。大学選手権は同大と決勝を争うが完敗。

 

◆1983(昭和58)年度

第3回ニュージーランド遠征(同大と帯同)、4勝5敗。

 

◆1984(昭和59)年度

対抗戦で帝京大、慶大、日体大、早大に敗れ、交流試合出場権を失う。

 

◆1985(昭和60)年度

大学選手権決勝は氷雨の中、慶大と争うが、引き分けに終わり両校優勝。抽選により慶大が日本選手権への切符を手にする

 

◆1986(昭和61)年度

第4回ニュージーランド遠征、1勝6敗。

 

◆1987(昭和62)年度

史上初の雪の中での明早戦。

 

◆1988(昭和63)年度

大学選手権決勝は大東大と争うが、引き分けに終わり両校優勝。トライ数で上回った大東大が日本選手権に進出。

 

◆1990(平成2)年度

22回目の明早全勝対決。北島監督は吉田主将の希望を入れて初めての出陣式を行いジャージー授与。試合は後半40分に早大・今泉が80メートル独走トライ、守屋のコンバートも決まって同点でタイムアップ。

明早対決となった大学選手権決勝で、同点引き分けの悔しさを晴らし2年ぶり8度目の大学日本一。9年振りの日本選手権出場。

 

◆1991(平成3)年度

大学選手権で大東大を下し初の連覇。歓喜のビクトリーラン。

 

◆1992(平成4)年度

創部70周年。

第1回ジャパンセブンズが秩父宮ラグビー場で開催され、明大が初代チャンピオン。

 

◆1995(平成7)年度

1990年の明学大戦に始まった対抗戦連勝(早大との引き分けを挟む)が筑波大に敗れ50連勝でストップ。

 

◆1996(平成8)年度

5月28日午前4時28分、北島忠治監督が呼吸不全により死去。享年95歳。

 

◆1997(平成9)年度

監督不在で4コーチ集団指導制。

同大以来の大学選手権3連覇に挑戦するが、関東学大に阻止される。

 

◆2000(平成12)年度

3年間空位だった監督に37歳の田中充洋が就任。

 

◆2002(平成14)年度

監督に境政義が就任。

 

◆2003(平成15)年度

八幡山に、合宿所に続き全面人工芝のグラウンド完成。

 

◆2008(平成20)年度

監督に藤田剛が就任。

 

◆2009(平成21)年度

監督に吉田義人が就任。
 

◆2013(平成25)年度

監督に丹羽政彦が就任。

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草創の記(大正10年~11年)

【はじめに】
明治大学ラグビー部は、大正12年4月1日に創立された。大正11年には、創設者・能美一夫ら同好グループが集まって、誕生への胎動を始めていた。この日、学友会ラ式蹴球部として正式に認められ、歴史を重ねて現在に至っている。
明治大学は、明治14年1月17日、明治法律学校(創立者・岸本辰雄先生)として開校、明治36年、学制改正によって明治大学と改称されている。学友会が創立されたのは明治39年2月で、ラグビー部は14番目の加盟体育部として認められた。
ラグビーフットボールが発祥したのは1823年で、日本に伝えられたのは1899年(明治32年)のことである。慶應義塾の学生に手ほどきされ、2年後の明治34年、慶應義塾と横浜外人クラブとの試合が行われ、これが我が国における初のラグビー試合であった。
明治44年、京都の第三高等学校、続いて翌年、同志社大学が産声をあげ、日本人同士の試合が実現するようになった。東京では遅れて大正7年、早稲田大学、同10年、東京帝大、そして東京商大、明治、立教などにチームが生まれた。

【創部の芽生え】
大正10年の冬、当時若き予科2年生だった能美一夫(昭和59年没)は、三田綱町グラウンドで初めてラグビーの練習風景を見かけた。慶應の学生達が広いグラウンドに楕円のボールを蹴り上げ、走り回る、奔放なこのスポーツに魅せられた。能美は柔道、相撲、馬術などに親しんできたが、青空のもと集団でするこの男性スポーツに一気に惹きつけられ、三田通いを始めるようになった。
これが明治大学ラグビー部誕生の芽生えとなった。他から勧められたわけではないが、能美青年はラグビーに対する憧れを募らせていった。ついには自分でプレーしてみたくなったが、学校にはラグビー部がない。そこで柔道仲間の島崎軍二、大里弼二郎、鎌田久眞男らを説得し、大正11年春、創部を決意した。
ここで能美の積極的な行動力が発揮され、賛同者を集める一方で、鎌田を伴い早稲田大学ラグビー部を訪れ教えを請うた。大町清主将は快く引き受け、部で作った解説書を提供してくれるなど、このうえない指導を受けた。後年、日本ラグビー史に早明争覇の輝かしい足跡を残した好敵手・早稲田大学とは、この時期に早くも接触したわけで、奇しき因縁であった。
またこの時、大町主将から手渡されたボールを能美が力いっぱい蹴ったのが、明治大学ラグビー部誕生のファースト・キックでもあった。

【ラグビー界への第一歩】
かくしているうちに、大正11年11月23日には第1回早慶定期戦が三田綱町グラウンドで行われた。明治のラグビー同好グループも人数を増やし、日比谷公園に出かけ、パス、キックの基本練習を続けてチーム作りを志した。
大正12年2月末、学友会体育委員会で創部の承認を受け、4月1日から正式に明治大学ラ式蹴球部として、ラグビー界に第一歩を印することになった。

「明治大学体育会ラグビー部々史」より